失われた握力(ちょっと違うらしい)

  7月25日、脳梗塞の発症から1週間、本格的なリハビリが始まりました。


 最初が言語療法の時間でした。少し会話をしてから簡単なパズルや、記憶のゲーム的な事をやっていきました。私はこの“短い記憶”みたいな物が病気になる前から不得意でした。どうしてそうだと認識していたかというと、資料を作っているとき、例えば電話番号をwebから転記するのにコピペが出来ない場合は、覚えて入力するわけですがほぼ記憶出来ません。単に数字がダメというよりは、理由のない数字を憶えるのが不得意みたいです。


 一応そんな情報をSTに伝えました。逆に私も一つ一つ、テスト項目の実施理由を教えてもらいました。例えば、紙に番号の付いたドットがちりばめられて、それを鉛筆で番号順に結んでいき一筆書きの絵を完成させるというテスト。これは視野が狭くなっていないか、注意力が落ちていないか等を調べるのだそうです。ドットの数字は無秩序に並んでおり1の次のドットが2ではないわけで、周囲を探す必要があります。脳の機能が落ちるとそれが出来なくなるとか。それから2桁の数字だと10の桁しか認識できない1の桁しか認識できないとか左右の視野が狭くなったりするそうです。漢字の偏と旁がわからなくなることもあるそうです。


 高次脳機能障害の可能性は無さそうだということですが、慎重に進めるということでしばらく続けることになります。


 次に作業療法です。最初に「ちょっと握力を」ということで握力測定です。麻痺している右手に握力計を持たせてグッと力を込めると「30kg」の表示。OTが「あれ?」と言いました。一応左もと言って測定すると「62kg」の表示。説明によると、

「普通ですね、わびすけさん程の麻痺が出ていると、握力は4とか8kgになるんですよ。まぁ、これならもう良いです。」

とやたら笑っておられました。私は病気前は握力70kg程あったので少なくとも40kgは失った訳で、自分なりの喪失感を感じていたのですが、片麻痺界では違うようです。


 それから穴の開いたボードに木の円柱を手ではめていくと言う、よくテレビとかでおばあちゃんがやっているあれをやりました。これが難しい。コントでおばあちゃんの手がユラユラしてあちこちボタンを押しまくるみたいなネタがありましたが、まさにあんな感じ。全然穴に入らない。この時、この時というか私の場合は今もですがやっぱり「スゲェ、俺こんなのも出来ねぇワ」という驚きがあり、若干笑ってしまう感じもありました。


 私がやたら面白がっているので、OTも「普通そんなウケてやる人はいないんですけどね。皆さんショックを受けるみたいで。」と言いました。こういうことが出来ないことは私の人生の中で優先順位が低かったのかもしれません。そもそも小さな円柱を穴に入れるという動作は生活の中で何かあっただろうか?字面だけ見るといやらしい事しか思い浮かばないし。


 次の時間は運動療法です、ここで私の適性を見抜いて下さったPTとの出会いがその後のリハビリ生活と回復への方向性を決定づけたと言っても過言でないと思っておりますがそれはまた次に。

脳卒中 何が出るかな?

 7月24日、いよいよ最初の病院を退院です。
 その朝、私の担当医が部屋まで来られました。これはどうです?これは出来ますか?と幾つかの動作を試しました。終始クールな対応のドクターでした。私の家内にもずっと「どうなるかわかりません」と言っていた方です。そのドクターが「大丈夫ですよ。戻りますよ。リハビリ次第で絶対大丈夫です。」と別れ際に仰りました。脳卒中関係で回復が見込めるかどうかの判断はどんなベテラン医師でもできないのだそうです。何故そんなことを言ってくれたのかその時は分かりませんでした。


 介護タクシーなるものに初めて乗りました。車椅子を押され、リフトで上げられそのまま固定。車椅子の座り心地は良いとは思えないので少々不安でしたが、首都高も下道もそこそこ流れてくれたおかげで道中ストレスなく、自宅近くの医療センターから新宿歌舞伎町にある病院に転院です。1週間ぶりの外の空気は蒸し暑く、少しの間でも空調頼りの生活で随分と体力が衰えた気がしました。


 外来で主治医から説明を受け、MRIに入りました。私は閉所恐怖症ではなく、MRIの中でも問題はないのですが、ガントリーに身体が入るとなぜか顔の辺りがかゆくなります。手も足も出ないのに。
 
  私のMRIの画像は、ブランドの「Hurley」のロゴみたいな部分(脳室というらしいです)の横部分にきれいに丸く白く光っております。主治医曰く「実にスタンダードな脳梗塞」とのことでした。場所によって障害が違うのかどうかを質問しました。      すると主治医は
「う~ん、これはですねぇ、軽い重いや、障害の部分とかそういうのはもう”日頃の行い”としか言いようがないんですよねぇ。」と仰いました。
そうか、脳卒中でどうなるのかって本当にふわっとしてるんだな。障害のうち何が出るかは神のみぞ知るってことです。


 それから主治医から言われたのは「早く回復期病院に移ってください。」という言葉でした。せっせとリハビリをするしかないそうです。私が転院したこの病院も2次救急で、こちらの場合は2か月までは入院できるそうですが、難点は土日にリハビリがない事だそうです。転院初日からさらに転院を促されるとは想像しておりませんでしたが、ソーシャルワーカーの人からリストを頂き病院調べです。


 病室は15階で眺めはそこそこ・・と言いたいところですが雑居ビルだらけで夜景をお楽しみという感じでもありません。遠くの方にスカイツリーがぼんやり見える程度です。そして病院の足もとには夜の歓楽街、大遊技場歌舞伎町があります。何より最初の病院もこの病院も前職でさんざん営業に来ていた病院です。あらゆる意味ですごく変な感じです。


 夕方に、明日からお世話になるPT、OT、STが病室に来て挨拶をしました。
個室だったので消灯の縛りがやや穏やかでしたので、気付いたら眠り、気付いたら目覚めるという感じです。夜中に目覚めてはよくわからないBSの番組を見るのが日課となりました。

今ある戦力で

  最初の病院でのリハビリは2日間だけでした。その病院は3次救急の1000床以上の医療センターでした。2回目のリハビリは病棟の廊下でした。7月22日の土曜日。廊下の手すりを使っての歩行です。何と表現したら伝わるかと思いますが、私には新しいスポーツを始めたといった感覚の方が大きく、以前を思い出すとかそんな感じではありませんでした。


 午後に家内と2人の娘が病院に来ました。デイルームでお茶など飲みながら、今私の身体がどんな感じなのかを説明しました。まるで他人の説明をしているかのように淡々と説明をしてしまい「不思議だろ?すごいなカラダって」と私が言うと娘たちも頷いておりました。
「そうだ、今なら腕相撲で前たちが勝てるぞ。」と言って勝負したところ、麻痺している私の右腕はまるで負ける気配がなく、娘2人がかりでもビクともしません。私にはどの程度力が出ているのかがほとんどわからない状態でしたが、私の身体はなんだか丈夫でした。


 夕方、担当医から病状の説明がありました。内容はもう初日からたいしてかわらずです。いつものごとく家内が「戻るのでしょうか?」と聞くと「いやあ、これは本当にわからないんですよ」と言われました。私はもうショックもありませんでした。


 私は、家内や娘たちに話ました。
「要するに、戻るかもしれない。ただどの程度かはわからない。でも失った機能をぶつくさ言ったところでしょうがない」。しかし機能は失ったが、腕や足が飛んで無くなった訳ではない。今使える戦力でどう生きていくかだけだ。そしてあわよくば回復させる。回復が今日止まっちゃうかもしれないが、それはわからんってことだ。」
そんな私の解釈いみんな納得していました。それからは「戻りますか?」という質問はなくなりました。


 その頃になると、私は風呂に入ってないので何とかしたいと思っておりました。入浴はだめです。シャンプー台が借りられるとのことで久々の洗髪です。「あ。。」右手が上手く使えないのでまぁ不便不便。トラベルパックの小さなシャンプーのキャップは転がっちゃうし、なにより指が開いちゃうのでお湯がすくえない。これは大変だぞと。


 翌月曜日には転院が決定しておりました。3次救急というのは依頼は100%受け入れるというのが原則だそうで、1週間以内の転院は入院の日には家内が言われていたそうです。私の職場のドクターがすぐに知り合いの都立病院のドクターに話を通して頂いていたようで、すんなりと行き先が決まりました。