入院後の初外泊

ブログの更新が遅れました。数年ぶりに首都圏を直撃した降雪のせいとかそんなものではなく、忙しかったからです。


 さて、昨年の8月の話でしたが、8月の後半に私にも念願の「試験外泊」の許可がおりました。なるべくリハビリの単位数を落とさないような時間軸での外泊です。


 外泊当日は家内と2人の娘がお迎えに来てくれました。夏休み何処にも連れて行けず申し訳ない感じでした。病院から杖をレンタルし出発です。病院の外に出て驚いたのは、院内ではリハビリでそこそこ上手く歩けるようになったのに、一歩外に出たとたん歩き方がメチャメチャになってしまったことです。外泊から戻った時に聞いたのですが、外に出ると、まず道が平らではないこと、人や自転車、車など情報量が俄然増える事で、「歩く」と言う為だけに脳みそを使えなくなるのだそうです。


 病院を出てすぐのところに八王子ラーメンのお店がありました。お昼はそこで食べる事にしました。八王子ラーメンをご存知ない方に説明すると、割とあっさりしたしょうゆラーメンの上に刻んだ玉ねぎをトッピングするというスタイルが基本のラーメンです。久しぶりに体に悪そうなものを食べるのでなんだかドキドキしました。旨いかどうかという感想ではなく、「味が濃い」と思いました。すっかり薄味に慣れてしまっていました。


 食後、自宅まで電車で2駅。麻痺した身体になって初めての電車です。座る気満々ですので普通に座るのですが、駅の階段とかエスカレーターとかその当時の私にとってはなかなかのハードルでした。電車を降りて駅ナカにある書店で物色。腕が上手く上がらないのと、手先の感覚が良くないので上の棚には苦戦しました。


 自宅に着きました。1ヵ月ぶりです。そう、私は1ヵ月で外泊が出来たのです。病院で知り合ったKさんやTさんは数カ月帰れなかったとか。久々にスリッパなしで歩くのですが、これが実に歩きにくい。家の段差などは気になりませんでしたが、普通の畳でも足がつっかかります。それから床の上に腰を下ろしたらこれまた非常に疲れました。立ち上がるのも大変。いやぁ、家の中もハードル高いわと感心しました。


 病院にいる時は帰りたいと思っていましたが、いざ帰ってみるとたいしてやることがありません。身体が身体なのでやれることも限られるのですが。なんとなくノリでプレステをやってみました。指はまあまあ動くのですが、感覚が鈍く、違うボタンを押していたりしてやはり上手く出来ませんでした。グランツーリスモ(自動車のゲーム)は変な所でスピンしまくりです。


 トイレで発覚した事は「スリッパ履くの大変」という事実です。右足の先がコントロールできないので結局片方裸足のまま放尿です。


 担当のOTの方から「料理をしてみて下さい」と言われていたので子供達が好きだった炒飯を作りました。昔から料理は趣味でやっていたので、どんなもんかとやってみましたが、ボウルで卵をかき混ぜるのが大変、鍋で卵を混ぜるのが大変、ご飯を入れた後、オタマで狙った所に切るのが困難。唯一出来たのは無事な左手で鍋を回すことだけでした。病院に戻ってそれを報告したら、「まさかそんな本格的に作ると思ってなかった」と言われました。


 そこそこ盛沢山の外泊を終え病院に戻りました。久々の世の中はその頃の私の身体にはまだまだハードルが多く、先は長いなと実感しました。それでも不思議と絶望感もなく、勝手に「なんとかなる」と思い込みました。また薄味の日々の始まりです。

ADL向上

 さて、8月も3週目になった頃、いよいよ車いすとオサラバ出来る時がやって来ました。私が歩行を許されていたのは病室の中と、病室の脇にあるトイレまででした。私の病室は2階で、1階のリハ室までは車いすでしたがそれも終了です。


 車いすという物は、片麻痺だとちょっと使い辛いのです。右足はステップに乗せて、左手と左足を使って操作する感じです。必然的に右曲がりになる感じです。それも終わりです。さようなら車いす。


 そうなると私のメインのモビリティは足と言うことになります。私は入院生活をしてからTEVAのサンダルを愛用していました。ただこいつも麻痺のある足にはそれほど優しい履物ではありあせん。どうしても右足つま先を「ビッ」と床に引っ掛けてしまい、ちょいちょいよろけてしまうのです。これは未だにかわりませんけど。


 リハビリの時はスニーカーでやります。身体がこうなってからよくわかりましたが、スニーカーというのは本当に楽に歩けるように作られているのですね。歩けるというか走れるといった方が良いでしょうか。


 走ると言えば、部屋の中で、今走ったらどんな感じかちょっと試してみたのですが、ぜんぜん走れなくて驚きました。ふざけているみたいに足が動かないのですね。別に全力疾走ってわけではないのに走れない。これは新たな経験です。歯がゆいというか、もどかしいというか、不思議な感覚でした。


 知り合ったKさんは、夜に自主練をされていました。担当のPTに廊下を5周程度の歩行は許可が出ていたようです。私も自主練をしたくて担当のPTさんに伺い、やっても良い事になりました。でもいざやってみると、うまい具合に身体が動かず、鏡でチェックすると右の肩は下がっているし、これは続けてもしょうがないなと自主練を早々に終了なんてことも多々ありました。正しく出来なければやらないというルールを課しました。


 丁度この頃、作業療法で担当のOTの方がSTEFをやってくれました。STEFとは上肢機能検査で機能をスコア化するものです。私のスコアは69点で、80歳以上の最低点もしくは4歳の平均以下といった上肢の機能です。担当からは次の目標は75点と言われました。手先の器用さには自信があったのですが、回復はまだまだだなといったところでした。


 発症から3週間ほどで私が出来るようになったのは、トイレ、お風呂、食事は自立、STEF69点、院内車いすなし、杖なし歩行。出来ないことはまだ山ほどありましたが、自分の意志である程度の事は出来る状態になりました。なんせ初めてのことなので、進捗が良いのか悪いのか分かりませんが、とりあえず前進している感じでした。

停滞期からの急な機能向上

 リハビリで私を悩ませたのは回復の「プラトー」の時期です。一日一日が大きく良い方向に変化しているという感覚で、毎日のリハビリも一所懸命に頑張っていましたが、ある時から何の変化も感じない日が続いたのです。


 発症から絶対安静の寝たきり、ようやく起きあがり運動を始める。0から1、1から2と伸びが倍々に増えるのはある意味当たり前で、どんなにやっても20も30もステップが上になる事はありませんから、累積の分母が大きくなるほど1ステップの伸びは相対的に小さくなる。ま、その理論はわかりますが、うんともすんとも言わないくらい変化が起こってくれない時期が来ます。こいつがいわゆるプラトーです。


 私は普段、娘たちに
「昨日出来た事が今日出来ないなんて、今日生きなかったのと同じだわ」とか
「昨日より今日の方が進化していないなんてありえない」
などと、大口を叩いておりましたし、そう生きたいと思って生きてきました。娘たちにも植え付けておりました。


 そんな自分が、昨日と変わらない、一昨日と変わらない、これは私にとっては耐えられない出来事でした。特に8月2週目に起こったそれは正に屈辱的な日々でした。以前も書きましたが、私は自分で身体の様子を感じる事、身体を捉える事が得意だと思っていました。ところがどのPTさんの介入をしてもらっても何にも感じないのです。


 この何も感じない時期は、付いてくれたPT、OTの方々に本当に申し訳なく思いました。私の入院していた病院は20代~30代前半くらいのセラピストが多く、皆さん意欲があり、熱心でした。介入の前に色々調べたり準備をしながらリハビリをしてくれる事もわかっていたので自分のふがいない身体のせいで、彼らの大事な時間も無駄にしてしまうような気がしてしまうのです。私が謝ると、皆さん気にしないでくださいと言ってくれました。(まぁ患者ですから。)自分自身がイラつくというより、自分に関わってくれる人々に対して申し訳なく、きつい時期でした。


 リハビリは自分のものです。自分の身体です。にもかかわらず、今や担当してくれているPTやOTの方の作品みたいな、何というか共同作業で作り上げている感じがしてたのです。


そんな時、たまたま介入してくれたPTさんに教えて頂いたやり方で突然「ぴょん」と数ステップ段階が上がったのです。それも唐突に。担当のPTさんが休みの日だったと思います。翌日彼が病室に来た時に「こんな風に出来るようになっちゃった」と見せたら、「あ!」と言ってなんとも言えない空気になりました。でもこういう風な、停滞時期の後の急な伸びみたいなものを繰り返すのだと教えてくれました。


 食事の時に同じテーブルのKさんが週末外泊をするとの事で、何をしたいとかそんな話題になりました。別に何がしたい訳でもないけど家に帰ってみたいと思いました。夏だからと言って何もないし。毎年家族を連れて数日間海に行くのが恒例行事でした。次の夏はそんなこと出来るようになっているだろうか。