幸福論・不幸論

 私が脳梗塞になったのは単純に日頃の不摂生と言って過言ではない。身に起きた不幸と言うのとはちょっと違う気がしていました。この病気の発症リスクとしての原因がいまだに解明されていない超難病であるならまだしも、大抵は日頃の注意でリスクヘッジ出来るのです。で、そのツケが回ってきたと言うだけです。


 もちろん、中には日頃からきちんと節制をした生活をしていたにもかかわらずこの病気になてしまった方も大勢いることでしょう。しかしながら、割と多くの場合は私と同じようにヘビースモーカーだったり、不摂生の賜物みたいな感じだったりする。


 だからかもしれません。以前私には不幸せな感覚がないみたいな事を書いたと思いますが、私にその感覚が無いのは「自業自得」と思っているからかもしれません。脳梗塞になり長く入院をしたせいで不幸になったのは自分でなく家族だったり、所属する組織だったりするのです。不幸は言い過ぎかもしれませんが、不便をかけたのは間違いありません。


 何故こんな事を書くのかと言うと、たまにこの病気になった人から「私の不幸自慢」みたいな話をされて辟易するからです。


 ただ、幸不幸と言うやつは自己評価しかなく、それが当たっていると思うのです。お金もなく一人野宿しながらやっとありついた飯を食って「幸せだなぁ」と思うやつもいるし、ヒルズに住み、仕事も順調だが、フェラーリの中で悲しみの涙を流しているやつもいる訳です。


 さて、ある日こんなことがありました。私の病室で同じ入院患者のKさんTさんとテレビを見ていた時のことです。番組は秘境の絶景ポイントみたいなやつです。
Tさんが
「僕らもうこういう場所に行けないんですよねぇ」とぽつり。
「え?こんな所に行きたいですか?」と私
「いや、身体が動けば行こうと思えば行けるじゃないですか」とTさん。
「いやぁ、俺元気でもこんな所行くつもりないですね。行ってなかったし。ていうか、以前は行ってたんですか?」と私。
「いえいえ行ってないです。」
「じゃあそれは『出来ない・行けない』に入らないですよ。」
私が年長と言うこともあり、力づくで納得させた感はありましたが、我ながら核心だと思うのです。やってなかったことまで出来ないことの勘定に入れるなって話です。自ら不幸方向の志向にならないということです。


 この病気になって予定が狂ったり、出来ないことや行けなくなった事があるのは自分だけではなく、家族も同じだったりするという事を肝に銘じなくてはならないと思うのです。